「興亜工業社」設立
明治から昭和初期にかけて、伊那谷に住む人々の多くは稲作などを続けながら養蚕で現金収
入を得て生活していました。暮らしは決して豊かではありませんでしたが、一定の収入が確保さ
れていました。ところが昭和4(1929)年の世界恐慌で繭価が大暴落。現金収入が断たれた農家の
暮らしは一気に苦しくなっていきました。
向山一人は大正3(1914)年、農家の二男として生まれました。十代後半の多感期に貧しい農村
の厳しい生活を見せつけられた向山は19歳の春、電気技師を目指して上京。働きながら早稲田
高等工学校に学びます。卒業後は研究所勤務などを経て、やがて当時の東京市荏原区に抵抗器を
製造する「興亜工業社」を設立しました。そして翌年、故郷「伊那谷」に念願の伊那工場を設置した
のです。
「父母を楽にさせてあげたい」「ふるさとを少しでも豊かにしたい」と一念発起して上京してか
ら8年、27歳の英断でした。これが、向山の夢である「伊那谷に太陽を」の第一歩となりました。