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創業の精神

KOAは、農村というコミュニティーが崩壊していく中で、養蚕農家に生まれ育ったひとりの青年が農村の生活基盤づくりと安定した暮らしをこの地で実現しようと興した会社です。以来、創業者の「伊那谷に太陽を」という夢をかなえるために、「農工一体」というビジョンをめざして、経営が実践されてきました。お百姓がお百姓として暮らしていける環境をつくる。それが創業当初の時代の声でした。

伊那谷に太陽を

養蚕から電子産業へ

長野県南部の中央アルプスと南アルプスの間に南北に横たわる「伊那谷」。信州の雄大な自然 を象徴する二つのアルプスが生み出す幾筋もの清らかな流れと、諏訪湖から流れ出す豊富な水 が天竜川となり、谷を縦断しています。この豊かな自然に恵まれた谷は、かつて長野県内でも有 数の養蚕地帯でした。ここに今、世界に通用する独自技術を有する大小の優良企業が立ち並びま す。特に電子部品工業や精密工業などの躍進には目を見張るものがあります。

かつての養蚕地帯から豊かな田園工業地帯に姿を変えた伊那谷。その過渡期に、疲弊したふる さとを何とかしたい―と心を砕いたひとりの青年がいました。KOAの創業者・向山一人です。

創業者 向山一人
(むかいやま かずと)
(1914-1995)

「興亜工業社」設立

明治から昭和初期にかけて、伊那谷に住む人々の多くは稲作などを続けながら養蚕で現金収 入を得て生活していました。暮らしは決して豊かではありませんでしたが、一定の収入が確保さ れていました。ところが昭和4(1929)年の世界恐慌で繭価が大暴落。現金収入が断たれた農家の 暮らしは一気に苦しくなっていきました。

向山一人は大正3(1914)年、農家の二男として生まれました。十代後半の多感期に貧しい農村 の厳しい生活を見せつけられた向山は19歳の春、電気技師を目指して上京。働きながら早稲田 高等工学校に学びます。卒業後は研究所勤務などを経て、やがて当時の東京市荏原区に抵抗器を 製造する「興亜工業社」を設立しました。そして翌年、故郷「伊那谷」に念願の伊那工場を設置した のです。

「父母を楽にさせてあげたい」「ふるさとを少しでも豊かにしたい」と一念発起して上京してか ら8年、27歳の英断でした。これが、向山の夢である「伊那谷に太陽を」の第一歩となりました。

大正時代の伊那谷の風景

興亜工業社伊那工場(1943年)

手作業による切条工程(1959年)

興亜工業社伊那工場の着炭炉火入れ式(1942年)

農工一体

伊那谷の雇用を守りながら日本から世界へ

向山は伊那谷の疲弊した農村地帯に次々と工場を建設。農業を営みながら工場勤務で現金収 入が得られる道を地域の若者たちに提供しました。現在のKOAにも受け継がれている経営理念 「農工一体」が本格的に展開されたのです。

向山が「伊那谷に太陽を」を合言葉に「農工一体」論を唱えて興したKOAは、地域の雇用を守り ながら、アジア、欧米など海外にも拠点を拡大。国内と同じように、現地の人々との信頼関係を最 優先に事業を続け、創業から75年が経過した今、世界の固定抵抗器市場でトップシェアを誇る 電子部品メーカーに成長しました。お客様の6割以上は海外ですが、全製品の75%以上を現在で も伊那谷で作り、創業の精神を守り続けています。

電子産業の産地化を目指して

さらに、向山の努力は伊那谷に世界と渡り合える優秀な企業を次々と誕生させました。「向山 さんが戦後伊那谷産業の基盤をつくってくれたおかげ」と感謝する経営者も少なくありません。

平成7 (1995)年に惜しまれながら81歳で他界した向山の魂は、KOA社内はもちろん、伊那谷 をはじめとする日本国内や世界各地で今も生き続けています。

山に囲まれた貧しい農村に次々と工場を建設 (長野県下伊那郡南信濃村の工場地鎮祭、 1973年)

長野県南部は当時過疎化が顕著だった (長野県下伊那郡阿南町の阿南興亜電工 =右側の2棟、1969年)

地域の雇用を守り続けて

近年になってもKOAは、伊那谷の飯田市郊外の七久里や東信地域の上田市郊外の真田に、 新たな生産拠点を建設し、それぞれの地域で雇用を守り続けています。