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「こんにちは伊那谷」は1回3分の映像シリーズです。伊那谷各地の残したい風景、伝えたい言葉、小さなお祭りや職人さんなど、ふるさとのいまを伝えます。上伊那、下伊那を巡る「小さな旅」をお楽しみ下さい。


中川村

農地と農民を守った伝説の堤防

天竜川を訪ねて 2014年9月4日放送

理兵衛堤防は、江戸時代にこの地の大地主であった松村家が、度重なる大災害と闘いながら、莫大な私財(現在の金額にすると12億8千万円相当)を投じて築き上げた治水のための堤防です。
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天の中川橋の下に整然と姿を現した理兵衛堤防。


理兵衛堤防の大工事の創始者 松村理兵衛忠欣の肖像画 
(塩尻市 松村はつ子氏所蔵)
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理兵衛堤防 データ

工事:江戸時代中期 (寛延3年〜文化5年)1750年〜1808年 
   58年間もの歳月を費やして完成した。 
創始者:松村理兵衛忠欣   
長さ:総延長182m(姿を現した部分) 
見所:大水を対岸にはねる仕組みの堤防の構造と中断に築かれた感慨用水路

「暴れ天竜」の異名をとる天竜川は古来より氾濫を繰り返し、その度に流域の農地は大きな被害 を受けてきました。江戸時代中期、水害に苦しむ地域を救おうと当時地区の名主であった松村家が 親子三代(理兵衛忠欣(ただとし)、理兵衛常邑(つねむら)、理兵衛忠良(ただよし))が私財を投げ打 ち造った堤防です。度重なる崩壊がありましたが、58年もの歳月をかけて遂に完成した堤防は、天竜 川の本流と前沢川の流水を一緒に対岸側に押し返す仕組みでこれにより一千石の農地を確保したと いわれています。

理兵衛堤防 ミニスライドショー

明治時代に撮影された理兵衛堤防河川の右岸に移築復元した理兵衛堤防(実際の理兵衛堤防は現在の天竜川の河川内に残る)

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多くの地域の人が協力して築いた堤防

松村理兵衛忠良の子孫 松村 健悟さん

先祖を偲ぶという意味でも、多くの地元の方が力を合わせて築いた堤防という風に考えていますので、流されて、また皆で力を合わせて立ち上がって、という繰り返しですから。
 それが、現代(いま)の世に姿を現してくれたとうことは、もう一度考え直さないといけないと思います。
 やはり地域で、みんなで何事にも力を合わせていかなければいけない、という事ではないでしょうか。


周辺地図 「理兵衛堤防」 中川村片桐周辺

平成の大水で姿を現わした伝説の堤防

 理兵衛堤防は、江戸時代後期寛延3年(1750)から文化5年(1808)にかけて松村理兵衛忠欣(ただよし)・常邑(つねむら)・忠良(ただよし)三代にわたって築かれたものです。

 明治以降の度重なる洪水により大半が埋没してしまいましたが、昭和58年災害で天の中川橋右岸下流の旧堤防前面にその一部が現れ、平成18年7月豪雨災害では、旧堤防の上流側のコンクリート護岸が洗掘されて決壊し、理兵衛堤防上流側が姿を現しました。
 中川村遺跡調査会では、国土交通省による平成19年度田島護岸災害復旧工事に先立ち、確認調査を実施しました。
 その結果、理兵衛堤防の石積みの上流部が80m余にわたって確認されるとともに、堤防河川側中段に沿って71mにわたる灌漑用水路が発見されました。
 理兵衛堤防が天竜川の治水史上非常に貴重な歴史遺産であることから、工事終了後は現状復旧して埋戻し保存するとともに、用水路の木樋の一部を中川村歴史民俗資料館に転じ保存することとしました。
 平成20年3月 中川村教育委員会



アクセス 松川ICまたは駒ヶ根IC

松川IC下車→国道153号線→中川村の田島の信号右折→天の中川橋(松川ICから約15分)
駒ヶ根IC下車→国道153号線→中川村の田島の信号左折→天の中川橋(駒ヶ根ICから約30分)
最寄りの駅:JR飯田線 伊那田島駅