多くの地域の人が協力して築いた堤防
松村理兵衛忠良の子孫 松村 健悟さん
先祖を偲ぶという意味でも、多くの地元の方が力を合わせて築いた堤防という風に考えていますので、流されて、また皆で力を合わせて立ち上がって、という繰り返しですから。
それが、現代(いま)の世に姿を現してくれたとうことは、もう一度考え直さないといけないと思います。
やはり地域で、みんなで何事にも力を合わせていかなければいけない、という事ではないでしょうか。
周辺地図 「理兵衛堤防」 中川村片桐周辺
印刷用表示 |テキストサイズ 小 |中 |大 |
朝の学舎制作委員会のサイトへようこそ
Welcome to our Web Site
再生ボタン▶をクリックしてHD動画で番組をお楽しみ下さい。ボリューム調整は画面右下にあります。
「こんにちは伊那谷」は1回3分の映像シリーズです。伊那谷各地の残したい風景、伝えたい言葉、小さなお祭りや職人さんなど、ふるさとのいまを伝えます。上伊那、下伊那を巡る「小さな旅」をお楽しみ下さい。
理兵衛堤防は、江戸時代にこの地の大地主であった松村家が、度重なる大災害と闘いながら、莫大な私財(現在の金額にすると12億8千万円相当)を投じて築き上げた治水のための堤防です。
天の中川橋の下に整然と姿を現した理兵衛堤防。
理兵衛堤防の大工事の創始者 松村理兵衛忠欣の肖像画
(塩尻市 松村はつ子氏所蔵)
工事:江戸時代中期 (寛延3年〜文化5年)1750年〜1808年
58年間もの歳月を費やして完成した。
創始者:松村理兵衛忠欣
長さ:総延長182m(姿を現した部分)
見所:大水を対岸にはねる仕組みの堤防の構造と中断に築かれた感慨用水路
「暴れ天竜」の異名をとる天竜川は古来より氾濫を繰り返し、その度に流域の農地は大きな被害 を受けてきました。江戸時代中期、水害に苦しむ地域を救おうと当時地区の名主であった松村家が 親子三代(理兵衛忠欣(ただとし)、理兵衛常邑(つねむら)、理兵衛忠良(ただよし))が私財を投げ打 ち造った堤防です。度重なる崩壊がありましたが、58年もの歳月をかけて遂に完成した堤防は、天竜 川の本流と前沢川の流水を一緒に対岸側に押し返す仕組みでこれにより一千石の農地を確保したと いわれています。
理兵衛堤防 ミニスライドショー
先祖を偲ぶという意味でも、多くの地元の方が力を合わせて築いた堤防という風に考えていますので、流されて、また皆で力を合わせて立ち上がって、という繰り返しですから。
それが、現代(いま)の世に姿を現してくれたとうことは、もう一度考え直さないといけないと思います。
やはり地域で、みんなで何事にも力を合わせていかなければいけない、という事ではないでしょうか。
周辺地図 「理兵衛堤防」 中川村片桐周辺
松川IC下車→国道153号線→中川村の田島の信号右折→天の中川橋(松川ICから約15分)
駒ヶ根IC下車→国道153号線→中川村の田島の信号左折→天の中川橋(駒ヶ根ICから約30分)
最寄りの駅:JR飯田線 伊那田島駅