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「こんにちは伊那谷」は1回2分半の映像シリーズです。伊那谷各地の残したい風景、伝えたい言葉、小さなお祭りや職人さんなど、ふるさとのいまを伝えます。上伊那、下伊那を巡る「小さな旅」をお楽しみ下さい。


辰野町横川峡

 親子二代 鍋倉山の粘板岩と向き合う

里山を訪ねて 2013年8月8日放送

龍渓硯は優れた和硯として知られる。江戸時代に高遠藩が財政立て直しの施策のひとつとして製造に取り組んだ。「高遠硯」「伊那硯」「鍋倉硯」とも呼ばれ、全国的に名を響かせた。
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彫りや磨きの技法にも熟練の技が必要だが、石の素質を見抜く探石(たんせき)も重要な工程。二代目硯司、深澤淡齋さん(80)は、父親の初代硯司、深澤秀石さんの意志を受け継ぎ、長年粘板岩と向き合っている。


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 龍渓硯 データ

歴史:文政年間にはじまる 
  :長野県伝統工芸品   
作品:硯工房清泉堂に展示 
原石:粘板岩の原石は2億数千万年前のものとされる

昭和十年、当時の長野県知事大村清一氏によって「龍渓石」と命名され、この石で作った硯を「龍渓硯」と呼んでいる。「龍渓」の名称の由来は、天龍川水系で産出するということで「龍」の字を冠し、「渓」は、横川川の渓谷美の素晴らしさから「渓」をつけたという説と、中国広東省の古来有名な硯石の産地端渓で硯が製作され、広く世界で愛用されていることに因んで「渓」の字を頂いて命名されたという説がある。  昭和62年に長野県知事指定伝統的工芸品に指定。

龍渓硯 ミニスライドショー

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自然が教えてくれるものは大きい

清泉堂 二代目硯司 深澤淡齋さん(80)

石のロマンに懸けてみようかなと思い、父親のあとを継いでこの世界に入りました。しかし、やっぱり入ってみると奥が深いですよ。簡単には答えを出してくれないね。

粘板岩は板状に割れる性質(スレート面)の「目」があるので、タガネをその目にあわせ「小割り」という作業を行います。石の表面を見ただけでは「目」はわかりにくく、熟練した石を見分ける「目」が必要になります。
探石(たんせき)は、最も重要な技(わざ)だと思います。

自然界が自分に教えてくれるものは大きいですよ。


周辺地図 「龍渓硯」 辰野町上島周辺

龍渓硯の歴史

江戸時代、上島村(現、辰野町渡戸、上島地区)の農民が鍋倉沢で砥石を掘って作間稼ぎをしておりましたが、砥石になる石は少なく、掘れば掘るほど黒い石ばかりでありました。文政十一年(1828)横川、一ノ瀬村に医を開業するかたわら寺子屋式に学問を授け書道をたしなんでいた淵井椿斎が、この鍋倉山に露出している粘板岩に目をつけ硯を作って使用してみますと、墨のおりがよかったので、村人たちに硯作りをすすめました。
 その頃高遠藩では財政困難を立て直そうと色々な施策を実施した中で産物会所が創設されました。高遠藩はこの鍋倉山の石に注目し、御留山としてすべての硯石を産物会所へ取り入れ、硯作りの先進地である甲州鰍沢鬼島雨畑硯の産地から硯工を招いて硯作りの技術指導をさせました。買い上げた硯は大名などへの贈り物とされ民間に流伝することなく、一時は秘硯といわれた時代もありましたが、その後江戸や大阪など領外へ「高遠硯」、「伊那硯」、「鍋倉硯」として販売されるようになりました。硯石は渡戸鍋倉山の他上島村穴倉山からも掘らせ渡戸、上島、宮所、雨沢等で七十余名の硯工によって年産二千面を作硯していたようです。
 しかし明治時代になってから鉛筆・ペン・万年筆などの普及により硯の使用が少なくなり次第に衰えましたが、昭和になり硯が見直されると需要が増し、今村や渡戸では再び硯屋さんのいる村となりました。この中に甲州からやってきた初代の秀石もいたのです。 清泉堂HPより


アクセス 伊北IC JR信濃川島駅

伊北IC下車、国道153号線、県道201号経由。辰野町から横川峡に向かい、集落に入ると清泉堂の看板がある。車で約20分。

最寄りの駅:JR中央本線 信濃川島駅下車、徒歩15分ほど。