大島宿の歴史とともにいつまでも
円通庵の歴史に詳しい郷土史家 酒井幸則さん
当時のお宮とかお寺は、地域の人たちの一番人寄りのする所ですね。嬉しいにつけ悲しいにつけ、こういう所に集まってお話しをするという…ですから地域の拠点だったことは確かですね。
このしだれ桜も何とか長生きできてですね、地域へ伝わって行くように、そして、大島町とともに円通庵とともに長く伝えていってほしいですね。
周辺地図 「円通庵のしだれ桜」 松川町大島周辺
印刷用表示 |テキストサイズ 小 |中 |大 |
朝の学舎制作委員会のサイトへようこそ
Welcome to our Web Site
再生ボタン▶をクリックしてHD動画で番組をお楽しみ下さい。ボリューム調整は画面右下にあります。
「こんにちは伊那谷」は1回3分の映像シリーズです。伊那谷各地の残したい風景、伝えたい言葉、小さなお祭りや職人さんなど、ふるさとのいまを伝えます。上伊那、下伊那を巡る「小さな旅」をお楽しみ下さい。
円通庵のしだれ桜 ミニスライドショー
当時のお宮とかお寺は、地域の人たちの一番人寄りのする所ですね。嬉しいにつけ悲しいにつけ、こういう所に集まってお話しをするという…ですから地域の拠点だったことは確かですね。
このしだれ桜も何とか長生きできてですね、地域へ伝わって行くように、そして、大島町とともに円通庵とともに長く伝えていってほしいですね。
周辺地図 「円通庵のしだれ桜」 松川町大島周辺
円通庵の調査
中略…円通庵資料のなかに昭和二十九年八月付けの「村史作成調査書」があり、「江戸時代中期の天和元年(一八六一)、大島町有志が庚申堂を創立し、堂の前に桜を植えたと伝えられ、町の信徒が集まり、毎年三月十七日(旧暦)、桜の花の盛りに法要を営んできた」と記されています。しかし、天和三年に庚申堂を創立したということを記す史料については記載がなく、あるいは伝承であったのか、今となってはこの出展を確かめることはできません。 …後略
円通庵の造立
今回の調査において円通庵の造立についてその一端を示す資料が確認されました。それは歴代の尼僧が記した『圓通庵什物帳』と、尼僧三世の秀禅が記した『勧化帳』、それに三世智光以後の『過去帳』と、同庵に祀られる開山と尼僧の位牌です。
尼僧四世の智光によって天保六年(一八三五)に作られた『過去帳』の最初に庵関係者七柱の戒名が記されています。これによれば当庵の開基は月峰春英尼(げっぽうしゅんえいに)、開山は鉄文道樹(てつもんどうじゅ)和尚と観光鳳州(かんこうおうしゅう)和尚ということになります。仏教用語の「開基」とは寺院を創建した人をいい、通常は経済的基盤を提供し。仏寺を創設した在家の信者をさします。「開山」とは「開基」に対し、創設された寺院の初代の住職となった人をいいます。とすれば寺院建立を発願し、その資金を提供したのは春英であったことが知られます。春英の戒名には、「當庵永住、名子村出生」とあり(※名子村は当時の大島町付近)、また位牌には「安永七戌年八月日當庵造立」「名子村米山氏出生」とあります。さらに『圓通庵什物帳』には「當庵造立春英代」とあります。当時の身分制度においては姓のある者は限られますから、「名子村米山氏出生」から春英は特定の身分の出身であったことが分かります。これらを総合すれば、名子村の米山氏出生の春英が安永七年八月に円通庵を造立(開基)し、ここに永住していたということになります。…後略
春英・観光鳳州の造立以前
先に記した通り、一説には天和元年(一六八一)に大島町有志によって庚申堂が造立されたとありますが、観光鳳州和尚および春英尼の創立より九十七年も前のことであり、史料も存在せず、確かなことは分かりません。観光鳳州および春英の造立した庵との関係も不明です。また、寛保二年(一七四二)に専照寺の末寺となり、第一世鉄文道樹大和尚が本堂・庫裡を建築したともありますが、これも観光鳳州および春英の創立より三十六年前のことでになり、確かなことは分かりません。
ただ、過去帳に「喜運浄観善者」(善は禅か?)という戒名があり、この者は庵の造立に先立つ五年前の安永二年(一七七三)に亡くなり。「當庵亡僧」と記述されています。とすれば、観光鳳州および春英の庵造立以前に寺庵が存在したことは確かです。 …(中略)
安永七年に観光鳳州および春英が庵を造立する以前、専照寺と関わりを持った寺庵が存在しており、それも相当に衰退していたものと想像されます。その寺庵で亡くなったのが先の「喜運浄観善者」で、「當庵亡僧」とあることから僧であっったことは確かですが、戒名からは高い知徳は感じられません。
どのような寺庵が存在したのか、またどのように呼ばれていたのかは分かりません。これを再興ということでなく、新たに庵としておこしたのが円通庵の始まりと見られます。 …(後略)
※はHP制作者注釈
酒井幸規著『大島円通庵誌』より抜粋
中央道松川IC下車、坂を下り松川インターの信号機を右折、数十㍍で右手が円通庵。